【大学受験】国語力を身に着けるために高校生のうちに読んでおくべき小説30選(面白くなくても読むべし!)

11.島崎藤村 – 『破戒』(1935年)

あらすじ

島崎藤村の『破戒』は、明治時代の日本を舞台に、被差別部落出身の青年、瀬川丑松の葛藤と成長を描いた小説です。丑松は、父親から自分の出自を隠すように厳しく戒められながら育ちます。彼は師範学校を卒業し、小学校の教師として働き始めますが、自分が「穢多(えた)」という身分の出身であることを隠し続けています。

丑松は、同じく被差別部落出身でありながら、自らの出自を公言して解放運動を行う猪子蓮太郎に強く影響を受けます。蓮太郎の思想に共感し、彼との文通を通じて自分の素性を明かしたいという気持ちが芽生えますが、社会の差別意識や自分の立場を考えると、なかなか踏み切れません。

ある日、丑松は父親の訃報を受け取り、帰省の途中で蓮太郎と偶然出会います。しかし、その場でも自分の出自を告白することができません。その後、蓮太郎は非業の死を遂げ、丑松は深い悲しみに包まれます。

やがて、丑松の出自に関する噂が広まり、彼は自分の秘密を隠し続けることに限界を感じます。ついに、丑松は自分が「穢多」であることを生徒たちに告白し、教師の職を辞する決意を固めます。彼は新しい人生を求めて東京へ旅立ち、アメリカ・テキサスでの事業の話も視野に入れながら、新たな道を模索します。

『破戒』は、差別と向き合いながら自己を見つめ直し、成長していく主人公の姿を通じて、人間の尊厳や社会の不条理を鋭く描いた作品です。

『破戒』を高く評価する人々の意見としては、まず島崎藤村の美しい文章と細やかな描写が挙げられます。丑松の内面の葛藤や成長がリアルに描かれており、読者に深い共感を呼びます。また、被差別部落の問題を正面から取り上げた社会的意義も高く評価されています。物語の重厚なテーマと、それを支える登場人物たちの人間ドラマが、読後に強い印象を残すと感じる人が多いです。
『破戒』を酷評する人々の意見としては、まず物語が重くて暗いという声が多いです。特に、丑松の内面の葛藤が繰り返し描かれるため、読んでいて疲れると感じる人がいます。また、差別問題を扱っているため、読後感が重くなるという意見もあります。さらに、登場人物たちの行動や結末が現実的すぎて、フィクションとしての楽しさに欠けると感じる人もいます。

12.樋口一葉 – 『たけくらべ』(1895年)

あらすじ

樋口一葉の『たけくらべ』は、明治時代の吉原遊郭近くに住む少年少女たちの成長を描いた短編小説です。物語は、14歳の少女・美登利(みどり)と、僧侶の息子・信如(しんにょ)との淡い恋を中心に展開されます。

美登利は、遊女になることが決まっている美しい少女で、吉原の大黒屋に住んでいます。彼女は、同じ町に住む少年たちと日々遊びながら、将来の不安や期待に胸を膨らませています。信如は、真面目で勉強熱心な少年で、美登利にひそかな想いを寄せていますが、将来僧侶になるため、彼女との関係を深めることに躊躇しています。

物語は、千束神社の夏祭りから大鳥神社の酉の市までの季節の移り変わりを背景に、美登利と信如、そして彼らの友人たちの生活を描きます。美登利は、町のガキ大将・長吉との対立や、友人の正太郎との友情を通じて、次第に大人の世界に足を踏み入れていきます。

ある日、美登利は信如が長吉と関係があることを知り、ショックを受けます。これをきっかけに、美登利は次第に大人しくなり、遊廓で働く年上の女性たちと遊び暮らすようになります。彼女は、自分の身体が子供から大人へと変わっていくことに気づき、憂鬱な気分に包まれます。

物語の終盤、美登利は家の前に差し込まれた水仙の造花を見つけます。それが信如からの贈り物であることを知り、彼女の心に新たな感情が芽生えます。『たけくらべ』は、思春期の少年少女たちの心の移り変わりを繊細に描いた作品であり、樋口一葉の代表作の一つです。

『たけくらべ』を高く評価する人々の意見としては、まず樋口一葉の美しい文章とリズミカルな文体が挙げられます。特に、登場人物たちの繊細な心の動きや、明治時代の吉原の風景が生き生きと描かれている点が魅力です。また、思春期の少年少女たちの淡い恋や成長がリアルに描かれており、読者に深い共感を呼びます。物語の切なさや哀愁が心に残ると感じる人が多いです。
『たけくらべ』を酷評する人々の意見としては、まず文体が古くて読みにくいという声が多いです。句読点が少なく、一文が長いため、現代の読者には理解しづらいと感じる人がいます。また、物語の進行が遅く、登場人物の行動や感情が分かりにくいという意見もあります。さらに、結末が切なくて重いと感じる人も多く、読後感があまり良くないという声もあります。

13.中島敦 – 『山月記』(1942年)

あらすじ

中島敦の『山月記』は、唐代の中国を舞台に、詩人を志すも挫折し、虎に変わってしまった男・李徴の物語です。

李徴は若くして科挙に合格し、役人としての道を歩み始めますが、詩人として名を成したいという夢を捨てきれず、役人を辞めて詩作に専念します。しかし、詩人として成功することはできず、生活に困窮した李徴は再び役人に戻りますが、かつての友人たちが出世しているのを見て、自尊心と羞恥心に苛まれます。

ある日、李徴は突然発狂し、姿を消します。彼は山中で虎に変わり果て、人間としての理性を失いながらも、詩作への未練を抱え続けます。そんな中、李徴は偶然にも旧友の袁傪と再会します。袁傪は李徴の変わり果てた姿に驚きつつも、彼の話を聞きます。

李徴は、自分が虎になった理由を「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によるものだと語ります。彼は詩作に専念するあまり、家族を顧みず、自分の才能を過信して他人と関わることを避けてきた結果、孤立し、虎に変わってしまったのです。

李徴は袁傪に、自作の詩を託し、妻子への計らいを頼みます。最後に、李徴は自分の虎の姿を袁傪に見せ、完全に獣となる決意を示します。袁傪はその姿を見て、友人の悲劇的な運命に胸を痛めます。

『山月記』は、自己の才能と向き合いながらも、社会との関わりを避けた結果、孤立し、破滅していく男の姿を描いた作品です。李徴の内面の葛藤や、彼が抱える自尊心と羞恥心が、読者に深い共感と考えさせられるものを与えます。

『山月記』の面白いところは、まず李徴の内面の葛藤がリアルに描かれている点です。彼の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が、読者に深い共感を呼びます。また、詩人としての夢と現実の狭間で苦しむ姿が、誰もが感じる挫折や自己嫌悪を思い起こさせます。さらに、虎に変わるという幻想的な設定が物語に独特の魅力を加え、読者を引き込みます。中島敦の美しい文章も、作品の魅力を一層引き立てています。
『山月記』を駄作とする人々の意見としては、まず物語が暗くて重いという声が多いです。特に、李徴の内面の葛藤が繰り返し描かれるため、読んでいて疲れると感じる人がいます。また、詩的な表現や漢文調の文章が難解で、理解しづらいと感じる読者もいます。さらに、李徴の自己中心的な性格に共感できず、物語に入り込めないという意見もあります。

14.志賀直哉 – 『暗夜行路』(1937年)

あらすじ

志賀直哉の『暗夜行路』は、主人公・時任謙作の人生を描いた自伝的小説です。物語は、謙作が幼少期に母を亡くし、祖父に引き取られて育てられるところから始まります。祖父の死後、謙作は祖父の愛人であったお栄と共に暮らし、父からの仕送りで生活しています。

謙作は小説家を目指しながらも、愛子という女性に結婚を申し込むが断られ、その後は芸者遊びに熱中します。しかし、次第にお栄に対する感情が芽生え、彼女との結婚を考えるようになります。そんな中、兄の信行から「お前は祖父と母の子であり、父の子ではない」という衝撃的な手紙を受け取ります。この事実に混乱しながらも、謙作はお栄との結婚を決意します。

物語の後半では、謙作が京都で直子という女性と結婚し、子供をもうけますが、直子が従兄の要に無理やり関係を持たれたことが発覚します。この出来事により、謙作は再び深い苦悩に陥ります。彼は自分の内面と向き合い、自己の浄化を求めて伯耆大山へと旅立ちます。

大山での修行を通じて、謙作は新たな視点を得るものの、体調を崩し、最終的には意識不明の状態に陥ります。妻の直子が駆けつける中、謙作は「実にいい気持なのだよ」と語り、彼の魂は浄化されていくように感じます。

『暗夜行路』は、主人公の内面の葛藤と成長を通じて、人間の弱さや強さ、そして赦しのテーマを深く描いた作品です。

『暗夜行路』を高く評価する人々の意見としては、まず志賀直哉の美しい文章と深い心理描写が挙げられます。特に、主人公・謙作の内面の葛藤や成長がリアルに描かれており、読者に深い共感を呼びます。また、物語の重厚なテーマと、それを支える登場人物たちの人間ドラマが、読後に強い印象を残すと感じる人が多いです。さらに、志賀直哉の独特の文体が作品の魅力を一層引き立てています。
『暗夜行路』に対する酷評としては、まず「話が長すぎて退屈」という意見が多いです。また、時代背景や思想が現代と合わず、読み進めるのが難しいと感じる人もいます1。さらに、志賀直哉の作品は短編の方が優れていると感じる読者も多く、長編である『暗夜行路』は冗長に感じられるようです。全体的に、物語の進行が遅く、主人公の苦悩が延々と続く点が批判されています。

15.石川啄木 – 『一握の砂』(1910年)

あらすじ

『一握の砂』は、石川啄木が1910年に発表した短歌集で、彼の第一歌集です。この歌集には、1908年から1910年にかけて詠まれた551首の短歌が収められています。内容は大きく二つに分かれ、故郷や北海道での生活を回想したものと、東京での生活の哀歓を詠んだものがあります。

歌集は「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」の五部構成で、啄木の生活や感情がリアルに描かれています12。例えば、「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」という有名な歌は、彼の貧困と苦悩を象徴しています。

また、「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」など、故郷への郷愁を詠んだ歌も多く含まれています。啄木の短歌は、三行分かち書きという新しい形式を採用し、口語的な発想と新しいリズムを生み出しました。

『一握の砂』は、啄木の生活の苦しさや喜び、そして彼の内面的な葛藤を詠んだ作品が多く、彼の人間性が垣間見える一冊です。この歌集は、啄木の名声を確立し、後の世代にも大きな影響を与えました。

『一握の砂』は、石川啄木の感情がリアルに伝わってくるところが魅力的だと評価されています。特に、彼の貧困や孤独、故郷への思いが短歌を通じて深く共感できると感じる人が多いです。また、三行分かち書きの新しい形式が斬新で、読みやすさとリズム感がある点も好評です。啄木の人間味あふれる歌が、今でも多くの人々の心に響いています。
『一握の砂』が不人気な理由としては、まず啄木の短歌が暗くて重いテーマが多いことが挙げられます。貧困や孤独、絶望感が強調されているため、読むのが辛いと感じる人もいます。また、三行分かち書きの形式が馴染みにくいと感じる読者もいるようです。さらに、啄木の個人的な感情が強く反映されているため、共感しにくいと感じる人もいます。

16.有島武郎 – 『或る女』(1913年)

あらすじ

有島武郎の『或る女』は、早月葉子という美貌と才知に恵まれた女性の波乱万丈な人生を描いた長編小説です。葉子は若くして作家の木部孤笻と恋愛結婚しますが、彼の俗っぽさに失望し、結婚は破綻します。その後、葉子はアメリカ在住の実業家、木村貞一と結婚するために渡米を決意しますが、船上で事務長の倉地三吉と恋に落ちます。葉子は木村との結婚を取りやめ、日本に戻り、倉地と共に生活を始めますが、彼の失業や葉子の贅沢により生活は困窮していきます。

葉子は妹たちを引き取り、生活に活気を取り戻そうとしますが、倉地の裏切りや自身の病気により次第に精神的に追い詰められていきます。葉子は倉地への執着と嫉妬に苦しみ、妹たちとの関係も悪化します。最終的に葉子は病に倒れ、倉地も失踪し、孤独と絶望の中で生涯を終えます。

この作品は、葉子の奔放な生き方とその結末を通じて、女性の自立や愛の追求、社会との葛藤を描いています。発表当時は評価が分かれましたが、戦後には日本近代文学の重要な作品として再評価されました。

『或る女』が良作とされる理由は、まず主人公・葉子の複雑な心理描写が非常にリアルで共感を呼ぶ点です。彼女の自由奔放な生き方や愛の追求が、当時の社会規範に挑戦する姿勢として評価されています。また、有島武郎の美しい文体と深い洞察力が、物語に一層の深みを与えています。葉子の人生の浮き沈みを通じて、人間の本質や社会の矛盾を鋭く描き出している点も高く評価されています。。
『或る女』がマイナスイメージを持たれる理由は、主人公・葉子の行動が奔放すぎて共感しにくい点が挙げられます。彼女の恋愛遍歴や自己中心的な生き方が、読者にとって理解しがたいと感じられることが多いです。また、物語の後半での悲惨な結末も、読後感を重くし、好まれない要因となっています。さらに、当時の社会規範に反する葉子の生き方が、批判の対象となることもあります。

17.横光利一 – 『機械』(1930年)

あらすじ

横光利一の『機械』は、あるネームプレート製作所で働く「私」の視点から描かれた短編小説です。「私」は九州の造船所を辞めて上京し、この製作所で働き始めます。製作所の主人は無邪気で子供のような性格ですが、金銭管理が苦手で、しばしば金を落とします。製作所では劇薬を扱う仕事があり、「私」はその危険な仕事に従事しますが、次第にその仕事に慣れていきます。

同僚の軽部は「私」を間者だと疑い、嫌がらせをしますが、「私」は無視します。ある日、主人が新しい研究に「私」を誘い、二人で黒色プレートの製法を研究し始めます。「私」は主人からの信頼に感謝し、仕事に没頭しますが、軽部の憎しみは増すばかりです。

製作所に新たに加わった屋敷という職人もまた、「私」にとっては謎めいた存在です。屋敷は優秀で魅力的ですが、その行動が不審に思えることもあります。ある夜、「私」は屋敷が暗室から出てくるのを目撃し、彼が何かを盗んだのではないかと疑います。

やがて、製作所での仕事がピークに達し、軽部と屋敷の間で暴力沙汰が起こります。「私」はその場を収めようとしますが、状況は悪化するばかりです。最終的に、三人は疲れ果てて酒を飲み、翌朝、屋敷が劇薬を飲んで死んでいるのが発見されます。軽部が疑われますが、「私」もまた自分が犯人ではないかと苦悩します。

『機械』は、人間の心理の複雑さと、機械のように冷徹に進行する運命を描いた作品です。横光利一の実験的な文体と、四人称の視点が特徴的で、読者に強い印象を与えます。

『機械』が高く評価される理由は、まずその独特な文体と心理描写の深さです。句読点が少なく、一気に読ませる力強い文章が特徴的で、読者を引き込む力があります。また、登場人物の複雑な心理や人間関係の描写がリアルで、共感を呼びます。さらに、機械のように冷徹に進行する運命を描いたテーマが新鮮で、横光利一の文学的独創性が光る作品として評価されています。
『機械』に対する批判としては、まずその独特な文体が読みにくいという意見が多いです。句読点が少なく、長い文章が続くため、集中力が必要とされます。また、登場人物の心理描写が複雑すぎて理解しにくいと感じる人もいます。さらに、物語の展開が暗く、重いテーマが多いため、読後感が良くないという声もあります。

18.梶井基次郎 – 『檸檬』(1925年)

あらすじ

梶井基次郎の『檸檬』は、主人公「私」が抱える不安と憂鬱を描いた短編小説です。「私」は肺の病気や借金などの問題を抱え、心に「えたいの知れない不吉な塊」を感じながら京都の街を彷徨います。ある日、果物屋で鮮やかな檸檬を見つけ、一つだけ購入します。その瞬間、不吉な塊が少し和らぎ、「私」は一時的に幸福感を覚えます。

その後、「私」はかつて好きだった書店の丸善に入り、檸檬を持ちながら店内を歩き回ります。しかし、再び憂鬱な気持ちが戻り、画本を積み上げた上に檸檬を置くという奇妙な行動に出ます。檸檬を爆弾に見立て、丸善が大爆発する様子を想像しながら店を後にする「私」は、心の中で一種の解放感を感じます。

この作品は、主人公の内面的な葛藤と一瞬の解放感を象徴的に描いており、梶井基次郎の独特な文体と心理描写が光る一作です。

『檸檬』が高く評価される理由は、まずその独特な文体と鮮やかな描写が挙げられます。特に、檸檬の冷たさや香りが五感に訴えかける描写が印象的で、読者を引き込む力があります。また、主人公の内面的な葛藤や一瞬の解放感がリアルに描かれており、多くの人が共感できる点も評価されています。梶井基次郎の繊細な感性と独自の視点が光る作品として、多くの読者に愛されています。
『檸檬』に対する酷評としては、まずその主題が曖昧で読解が難しいという意見が多いです。また、主人公の行動や心理描写が理解しにくく、共感しにくいと感じる人もいます。さらに、物語の展開が暗く、重いテーマが多いため、読後感が良くないという声もあります。全体的に、作品の独特な雰囲気が好き嫌いを分ける要因となっています。

19.坂口安吾 – 『堕落論』(1947年)

あらすじ

坂口安吾の『堕落論』は、戦後の日本社会を背景に、人間の本質的な「堕落」を鋭く考察した評論です。戦争が終わり、社会が大きく変わる中で、安吾は「堕落」こそが人間の本来の姿であり、それを受け入れることが新たな道を切り開く鍵だと主張します。

作品は、戦争の英雄が闇屋に転じたり、夫を亡くした未亡人が新たな恋愛に走る様子を描き、これらの行為が「堕落」とされる一方で、それが人間の自然な感情に基づくものであることを示しています。安吾は、堕落することを恐れるのではなく、むしろ堕落しきることが重要だと説きます。堕落しきることで初めて人は新しい道を歩み出すことができると考えています。

また、安吾は武士道や特攻隊、天皇制などの例を挙げ、人間の堕落の本質を探ります。彼は、戦争に負けたから堕落するのではなく、人間だから堕落するのであり、生きているから堕落するのだと述べています。この視点は、戦後の混乱期において新たな価値観を模索する人々に大きな影響を与えました。

『堕落論』は、安吾の鋭い洞察力と独特の文体で描かれ、人間の本質を見つめ直すきっかけとなる作品です。戦後の日本社会における人間の生き方や価値観を再考する上で、今なお重要な意味を持っています。

『堕落論』が良作とされる理由は、まずその鋭い洞察力と独特の文体です。安吾は戦後の混乱期において、人間の本質を見つめ直し、堕落を肯定的に捉える視点を提供しました。また、彼の文章は評論でありながら小説的な魅力があり、読者を引き込む力があります。この作品は、戦後の日本社会に新たな価値観を示し、多くの人々に影響を与えました。
『堕落論』がマイナスイメージを持たれる理由としては、まずその内容が過激であることが挙げられます。安吾の主張は、戦前の価値観や道徳を否定し、堕落を肯定するもので、多くの人にとって受け入れがたいものでした。また、彼の論理が一貫していないと感じる読者も多く、思想が散漫だと批判されることもあります。さらに、堕落という言葉自体が持つネガティブな印象も影響しています。

20.大江健三郎 – 『個人的な体験』(1964年)

あらすじ

大江健三郎の『個人的な体験』は、主人公の「鳥(バード)」が、脳に障害を持つ子供の誕生をきっかけに、自身の人生と向き合う姿を描いた小説です。鳥は、アフリカへの冒険を夢見る27歳の予備校講師で、妻の出産を控えています。しかし、子供が脳瘤という重い障害を持って生まれたことを知り、深い絶望と混乱に陥ります。

鳥は、子供の障害を受け入れることができず、現実から逃避しようとします。彼は大学時代の友人である火見子の元に身を寄せ、彼女との関係に溺れます。火見子は、鳥の心の支えとなりますが、彼の逃避行動を助長する存在でもあります。鳥は、子供の命を医師に委ね、自然に死を迎えさせることを考えますが、次第にその選択に対する罪悪感と葛藤が募ります。

ある日、鳥は火見子の家で、大学時代の友人から「自分で引き取って育てるか、直接殺すかの二択しかない」と言われ、現実と向き合う決意を固めます。彼は子供を大学病院に連れ戻し、手術を受けさせることを決意します。手術の結果、子供は重度の障害を持つ可能性が残るものの、鳥は家族と和解し、子供を育てる覚悟を決めます。

『個人的な体験』は、鳥の内面的な葛藤と成長を通じて、人間の弱さや強さ、そして親としての責任を深く描いた作品です。大江健三郎の実体験に基づくこの物語は、多くの読者に感動を与え、戦後日本文学の重要な作品として評価されています。

『個人的な体験』が良作とされる理由は、大江健三郎の実体験に基づくリアルな描写と深い心理描写です。主人公の葛藤や成長が丁寧に描かれており、多くの読者が共感できます。また、戦後の日本社会における人間の弱さや強さを鋭く描き出しており、文学的な価値が高いと評価されています。大江の独特な文体も、作品に一層の深みを与えています。
『個人的な体験』が人気がない理由としては、まずそのテーマが重く、読者にとって辛い内容であることが挙げられます。主人公の葛藤や絶望がリアルに描かれているため、読むのが苦しいと感じる人が多いです。また、大江健三郎の独特な文体が難解で、読み進めるのに時間がかかるという意見もあります23。さらに、物語の展開が暗く、救いが少ない点も敬遠される要因です。
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