【映画】工作 黒金星と呼ばれた男【1度は見たい映画★★★★★】
韓国軍の佐官であったパク・ソギョン(ファン・ジョンミン)に、……
一般の人にインターネットが広まったのは、おおよそ1995年からです。当初、インターネットは研究機関や専門家の間で使用されていましたが、1995年に一般の人々にも広まり始めました。これは、日本だけでなく、世界的にもインターネットの普及が進んだ時期です。
同年発売された Windows 95によって、より手軽にパソコンを使いインターネットに接続することが可能となり、またメディアの熱狂的な報道も相まって、それまでパソコンに触れたこともなかったような人々まで我先にと秋葉原に集まったものでした。
誰でも手軽に操作できるパソコンと、国境を超えて繋がることのできるインターネットが同時に出たことで、新しいもの好きな人たちにすぐに受け入れられるようになったのです。
今では世界中のあらゆる人が簡単にインターネットに接続しその恩恵を受けられるようになっていますが、インターネットがなかった時代は人々はどうやって過ごしていたのでしょうか。
今回はインターネットの無かった時代を振り返ってみたいと思います。
インターネットがないということはもちろん 電子メール自体もないということです その時代にはどのような手段で他の人と連絡を取っていたのでしょうか。
インターネットが無ければLINE やメールなどもありません。先生や会社の上司が出勤する時間を見計らって電話を入れていました。今のようにスマホから連絡を流しておけば良いという状況ではなく、決められた時間に電話で連絡をしなければいけないという面倒くささがありました。
小学校などでは連絡帳に「休みます」と書いて、わざわざ親が持っていかなければいけないという面倒くさい決まりを作っていたところもあったようです。
連絡手段は電話です。しかも固定電話。
昔は各家庭に黒い固定電話が置いてありました。受話器を取ってジーコ、ジーコとダイヤルを回して少し待っていると呼び出し音が鳴り、やがて相手の家に繋がります。
しかも、電話はその家の家族の誰かが出るので、恋人の親が出た時にはちょっと緊張したりするものです。彼女の家にかけた時にお母さんが出るとニコニコした感じで対応してくれて安心するのですが、父親の場合には電話の向こうの不機嫌そうな声がなんとなくわかるのでより一層 緊張したりもします。
不在だった時には少し時間をおいてもう一度かけ直したりするのですが、何度もそれが続くとやはり気まずいものでした。
インターネットがある今であれば、電話をする前に LINE などで一言電話していいかどうか確認できるのですが、その当時はそんな手段もなく常に一か八かというような感じでした。そのため恋人たちの間では何時ちょうどに電話をするという約束を取り交わすのが一般的でした。
書類を PDF 化してメールに添付するなどという技術は当時はもちろんありません。
まずは紙の書類を作り、担当者や責任者の印鑑をずらずらと並べ、相手先の FAX 番号を打ってスタートボタンを押すのです。
なお、FAX 番号というのは固定電話番号と同じようなもので、どの会社も会話をするための電話番号の他にFAX 専用の電話番号を電電公社(現在のNTT)と契約していました。
現在の電子メールの如く FAX を使用していたので、送受信の枚数も尋常ではないもので、送られてきたFAXを別の階や他部署に運んでいくような女子社員の姿もありました。まさにアナログ。
それとFAXを送る際には送付状なるものをまず 1枚目に送っていました。これは今の電子メールで言うところの署名にあたります。
インターネットがなければ もちろん SNS もありません。LINE なんてものはありませんから今自分がどの辺にいるか、何時頃到着するかなどを即座に連絡をする手段がないわけです。
そんな時代には全ての駅に伝言板が設置され、日時と要件を書き残して相手に伝えていたのです。
そんな不確かな連絡方法で本当に相手に伝わるのかと思うかもしれませんが、当時はこれでとても役に立っていたのです。
当時は今ほどシビアに時間を管理するツールがなかったのでこのような連絡方法でも立派に通用していました。
当時の駅は待ち合わせ場所としては最適で、みんながここを落ち合う 場所として使っていました。伝言板もあったので急な予定の変更があった時にそれを知らせることもできました。
日時と要点を書いておくと半日程度消されずに残っていました。時間の経過したメッセージを消すのは 駅員さんの仕事でした。
そういえば、人気漫画のシティーハンターでも依頼主はこの伝言板に依頼内容を書くという設定でした。
新しい音楽は全てテレビやラジオから入ってきました。今週のベスト10、トップ10などというタイトルの歌手を紹介するテレビ番組が流行り、 夜の8時頃には皆テレビに釘付けでした。
流行っている曲をレコード屋に行って買い求めたり、レンタルレコード店で借りてきてテープに録音したり、さらにお気に入りの曲だけを集めてオリジナルのテープを作ったりと、曲を聴くだけではなく自分だけの楽曲集を作る楽しみもありました。
出来上がったテープを車に乗せ、ドライブの時に流したり、友達と貸し借りしてコピーをしたりと、今よりもずっと著作権はゆるかったのですが、残念ながら音質は決して高いとは言えませんでした。
また最初からレコードではなくテープを買う人もいたのですが、そちらの方は何度も何度も聞いているうちにテープが伸びてしまい、レコードにすれば良かったと後悔する人も多々いました。
曲をテープからテープへコピーすることを当時は「ダビング」といい、 ダビング機能の充実したラジカセ やミニコンポがデパートの電気売り場に所狭しと置かれ、目当ての機器を買うためにお小遣いやお年玉を一生懸命 貯めていました。
録音するテープにもレベルがあり、ノーマルテープ・クロムテープ・メタルテープと3種類のテープが売られていました。メタルテープが一番音がクリアに聞こえるのですが子供にとっては高めの値段だったので 諦めてノーマルテープを買った思い出があります。
当時はスマホどころかデジカメもまだありません。
フィルムの入ったカメラを用意して、被写体のポーズを慎重に決めてブレないように何かの上にカメラを置いてシャッターを切っていました。
なぜポーズを慎重に決めるかというとフィルム 1枚あたりいくらという風にお金がかかったからです。スマホやデジカメのように失敗したら 削除してすぐに撮り直すなどということはできないのでなるべくフィルムが無駄にならないようにしていました。
今の人が数多くの中から気に入ったスマホを選ぶように、当時はアナログのカメラが多種多様に出回っていました。
また、使い捨てカメラも登場し、撮り終わったらカメラごと現像に出していました。
これは「レンズ付きフィルム」という名前で富士フイルムなどから販売されていました。カメラと命名してしまうとカメラ部分だけ返却しろと言われてしまうからという理由だそうです。
現像が終わると写真と共にネガ(ネガフィルム)も返却されるので、グループで撮った写真などはネガを再提出して人数分焼き増ししてもらっていました。
ご近所との距離はまだ近く、道端で合えば挨拶代わりに天気のことなどを話し、夕方から雨が降ると聞けば慌てて家に帰って洗濯物を取り込んだり、台風が来るような時は公民館の掲示板などに備えに関する情報が張り出されたりしていました。
毎日の天気予報は新聞の朝刊や夕刊に載っているので、小学生でも新聞のテレビ番組欄とともに天気予報ぐらいは チェックをしていました。
また1週間単位の天気予報などを掲載している雑誌もありおおよそのことはわかるのですが毎日の細かな天気の変化までは分かりませんでした。
ラジオやテレビの天気予報は決まった時間に放送されるので誰もがその時間を覚えていて、出かける時などは必ず天気予報をチェックしたものでした。
テレビで「快晴」とか「本日はずっと晴れです」などという日は安心なのですが「ところにより雨」「時々雨」などと表現された場合は大抵の人は折りたたみ傘を持ち歩くようにしていました。
一旦外出してしまうとスマホなどはないので簡単には天気のチェックができなかったのです。また現在ほど天気予報の精度も高いものではありませんでした。
短波放送では延々と天気予報を発信するチャンネルが用意されていました。専用の受信機器でその内容を聞いて天気図に起こすようなマニアックな人もいました。
野山で生活しているような人々は風の強さや向き匂いなどからその後の天気の変化を察知していました。長年の経験がなせる技ですね。
デジタル媒体はないので全て紙媒体でした。
週刊誌や単行本は書店にずらりと並べられていて、立ち読みをする多くの子供たちの姿を目にすることができました。
小さな町でも必ず駅前には書店があり、流行りの漫画や単行本などががびっしりと置いてありました。当時は週に何回も書店に通うことが当たり前で、学校や塾の帰りなどによく書店に寄ったものです。ずっと立ち読みをしていると書店の主人にハタキでパタパタとやられるようなシーンがありますがまさにそんな感じでした。
お小遣いを貯めてお気に入りの漫画の単行本を買ったり、友達と貸し借りをしたりして、今と遜色のないほど漫画文化は進んでいました。
週刊誌などは読み終わったものがゴミ箱に捨ててあるのでそれを拾って 読んでいる人もたくさんいました。また、路上では拾った漫画を並べて数十円で売っているような人を見かけることもありました。図書館にも漫画は置いてありましたが古いものが多く子供たちの人気はいまいちでした。
今のようにネットですぐ欲しい漫画が手に入るという状況ではなかったにもかかわらず、何かしらの方法で読みたい漫画を手に入れてました。
もうすぐ公開される映画はテレビで盛んにCM が流され、子供たちにとってはそれがほぼ唯一の最新映画の情報源でした。
映画館や書店、駅などで映画のポスターがたくさん貼られていました。
放映されている映画を見逃すと、次に見る機会はテレビで放映されるのを待つか、レンタルビデオ店で貸し出しが始まるまで待つしかありませんでした。
いつでもどこでも見れるわけではないので、話題の最新映画が封切りされると映画館はどこも長蛇の列になり、テレビではその光景を盛んに流していました。
ただのんびりした時代だったので、映画館に夕方頃から入ると閉店間際の時間まで何度も同じ映画を見ることができました。
人気の映画がテレビで放映される時にはVHSテープにとって、何度も何度も擦り切れるまで見ていた記憶があります。おかげで録画したビデオテープの山が積み重なって置き場の無いほど散らかってしまうような家庭も多々ありました。
当時でもテレビを録画する機能はありました。
ただ、VHS テープレコーダーなどで録画したものを自宅で見ないといけなかったので、一旦家に帰ってからという煩わしい時間が必要でした。
今のようにネットがあれば場所を選ばず スマホから動画を見れるのですが、当時はそこまで便利ではありませんでした。
家に帰ってくると遅くなってしまうので、録画したものを見る時間もなくそのまま寝てしまったりして、結果次の日のドラマの話題についていけなく、1人蚊帳の外になったりとか・・・。
結局、何が何でもその放映時間に間に合わせて家に帰ってドラマやアニメを見るという選択肢しかなかったのです。
インターネットがない時代には当然ですがSNSなどというものは存在しません。遠く離れた他人同士が友達になる手段は限られていたのです。
当時の方法としては雑誌などを通じて知り合いになり、手紙でやり取りをする方法が一般的でした。雑誌の文通コーナーは多くの人が利用し人気のあるコーナーで、利用者は自分の希望条件に合う相手を探し、手紙のやりとりを通じて交流を深めました。
雑誌にの文通コーナーに自分の年令や性別、自己紹介や希望条件を出しておくと似たような人が申し込んでくるのです。住所も当然の様に掲載されていました。
今では信じられない事ですが昔は野球選手や漫画家の住所も載せられていたのです。ファンが元巨人軍監督の長嶋茂雄さんの自宅を徘徊していたニュースは有名です。
文通コーナーを通じて手紙のやり取りをして、気に入らなければ手紙が途絶え、フィーリングが合えばずっと手紙の交換を続けたのです。
手紙のやりとりには時間と手間がかかり、返信に数日〜数週間待つことなどざらで、その分深いコミュニケーションを築くことができました。
文通だけでは限られた情報しか得られないため、相手のイメージや理想像を自分で勝手に作り上げ、文通を通じた恋愛は夢の世界が広がりました。
また、距離の関係で一度も会ったことが無い人も多くいました。
今ほど移動も楽ではなく、その分危機感も薄かったのでしょう。まるで現在のSNSやマッチングアプリのようですね。
やはりインターネットがないので 当然のごとく SNS もありません。
面白いことが全国一斉にバズルなどということはありえない時代でした。ある地方ではホッピングが流行っていたり、また別の地域ではいまだバンバン ボールが流行っていたり、 流行は借りられたエリアの中での盛り上がりに過ぎませんでした。
転校生が来ると前の学校で流行っていた 遊びなどを教えてくれるのでそれが一気にブレイクすることもありました。
インターネットのない時代は地方ごとに異なる流行が存在し地理的・文化的な要素が流行の違いに影響したのです。また地域の特産物や風土が流行に反映され地方独自の良さが目立っていました。
兄や姉がいると、いち早く世間で流行っていることやファッションなどを教えてもらえるので、クラスの中で話題の中心としてもてはやされるのでした。
ネットがなかった時代、小学生が吸収できる知識など漫画やテレビのアニメ 程度で、世間の状況などほとんど入ってきませんでした。世間の流行や新しいことなどをこぞって書き連ねてあるような雑誌もまだ読む年齢でない小学生にとって、年上の兄弟たちの知識は背伸びするに十分すぎるものでした。
流行りの言葉であったり漫画であったり、ドラマの批評など大人びた会話をしているクラスメイトの情報では大抵 その辺りから吸収したものだったのです。
自宅で得られる知識には限界があったので、より多くのことを学んだり調べたりするためには図書館の存在は欠かせませんでした。
勉強や調べ物をする際には参考資料を集めるため、図書館に行って辞書や百科事典をたくさん脇に積み重ね、分厚いページの中から自分の必要な情報を探し出す必要がありました。
大学生や研究者にとっては研究の場でもあり、専門書や学術雑誌がフル活用されていました。
特に受験生にとっては図書館は自分の勉強部屋みたいな存在でした。当時の図書館には閲覧室の他に学習室という場所が設置されていて、勉強する学生たちにスペースが提供されていました。
受験生ともなると朝早くの開館と同時に自分のお気に入りの席を確保し、延々と机に向かい勉強をしたものです。昼時になれば、持参したお弁当を広げたり、パン屋や弁当屋などで昼食を買い、暗くなって閉館の時間になるまでずっと図書館に籠ったものです。
周りには自分と同じように受験に備える人が多くいたので、違う学校の生徒同士でもお互いに勉強を教え合ったりして仲間の輪が広がりました。
3月の終わり頃には全ての受験も済み、それまで一緒に図書館に通っていた馴染みの姿を見ることもなくなり、4月になると次の学年がまた同じように図書館に集まるようになります。大学に合格したのち、たまに図書館に調べ物に行った時など、知らない子たちばかりで少し寂しい気分になったものでした。
図書館は人々の知識の中心であり、余分な飾りのない情報を入手する唯一の手段だったのです。
以上、インターネットの無かった時代を振り返ってみました。今考えてみるとずいぶんと不便な時代だった様にも思えますが、その中で皆いきいきと輝いていたのです。
では、また~